絶対医学の王道「整形外科学」

 本シリーズでは絶対医学と相対医学という対比の視点で医療を俯瞰していますが、数ある医科の中でも、絶対医学と最も親和性の高い科は整形外科です。なぜそう言えるのか?

 その理由についてはいくつかの論拠がありますが、ここでは「骨を観る」という観点で説明させていただきます。例えば100体の骨格標本(骨だけの状態にした献体)が目の前に並んでいる状況を想像してください。あなたはそれらを見て、各個体の違いを見分けることができますか?骨盤や骨端線の違いから性差や年齢を推測することはできても、個人を特定することは可能でしょうか?

 粘土によって生前の顔を復元する復顔師であれば、一目見ただけでそれらの違いが分かるのかもしれませんが、普通そうした光景を前にして個体を判別できる、つまり「この骨はAさんで、そっちの骨はBさんです」と言い当てられる医療者はかなり少ないと思います。

 一般に、私たちは何をもって、個人差や個体差を感じているのでしょう?その最たるものは、やはり顔でしょう。AIの進化は顔認証の技術を飛躍的に向上させています。このままAIの進化が続けば、個体差の判別手段として汎用性の高いシステムになっていくことでしょう。

 多くの場合、私たちは相手の顔を見ることで個体差を判断しています。言い換えれば、相手の顔を見ている時はすなわち個体差と向き合っている時なのです。しかしX線、CT、MRIなどの画像に、顔は映っていません。

 X線画像に映る骨を観ているとき、その医療者の眼に相手の顔は見えていないのです。これは臓器医学の全てに当てはまりますが、内科系において最も重視される要因は、形態の違いではなく「機能の良し悪し」です。

 他方、整形外科ではまず形態を見ます。機能より形態を優先して対象を注視します。「機能より形態重視」、これが整形外科のアイデンティティだと言えます。整形外科における病名の多くが、形態学上の診断名になっていることがその証左です。

 骨折症例に対して、X線による正常なアライメントでの癒合が認められたなら、ほとんどの医師はその時点で任務完了だと考えます。その状況にあってなお「まだ痛いんですけど」と訴える患者の声と真摯に向き合う医療者は極めて少数派…。

 前述したように骨格標本(骸骨と化した人間)を前にして個体を判別できる医療者は稀少ですので、骨の専門家である整形外科が「骨を見て人を見ず」になるのは必然…。後に述べる“生い立ち”のプロセスと合わさって、自ずと整形外科は個体差という次元から遠ざかりやすいポジションにいます。
 
 結果、個体差を無視する診断哲学は、とくに変形と痛みの関係において明確なスタンスに直結します。「変形があっても痛い人、痛くない人がいる」という個体差が決して病名に反映されることがない、すなわち形態学上の診断名に依った姿勢です。

 整形外科に長く勤めていれば、上記のように「患者の訴えと画像所見が食い違う例」に遭遇することは決して珍しいことではありません。上記画像の症例は3人とも軽微な外傷(軽い打撲)当日に受診しました。

 一番左(側弯所見)の症例に至っては、電車内で人とすれ違った際に相手の腕が軽く接触しただけで、とくに痛みはなかったものの心配になって来院したという身体症状症(詳しくはこちらのページ)の患者です。

 問診時に既往歴を尋ねると、3人全員が「これまでの人生を振り返って同部位に痛みを感じたことは一度もない」という応答。

 であれば、こうした一連の画像所見が軽度打撲によって当日瞬時に変化したものだと考える医療者は相当に少ないでしょう。動的時間軸で考察すれば、痛みがなかった大半の人生において、これらの画像所見は既にあったもの、すなわち無症状時に抱えていたありのままの姿と考えるのが自然…。

 問診にきちんと時間を割いて、常に動的時間軸による考察を欠かさずに運動器の問題と対峙していれば、多くの場合「画像所見と患者の訴えが一致しない」ことに気づきます。

 では、なぜこんな当たり前のことが教科書に記述されないのでしょうか?

 絶対医学においては個体差という概念がないため、「丁寧な問診を心がけて痛みの真の原因を探る」というスタンスがありません。「痛みの原因は画像に現れて決して嘘をつかない」と本気で考えているのです。絶対医学は本当に個を重視しない医療哲学だと言えます。

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